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母りんミラクル。その3。

母りんミラクル。その1。からつづいています。

義父さんのお葬式のために帰国して、それを利用して日本にちょっと長めに滞在してたのが、7月はじめから、7月末くらい。

で、一旦アメリカに戻り。

「だんなの出張」と言う、「ミラクル後押し」に助けられて決断した、母りんの脳のガンマ治療の立ち会いに合せてのわたしの日本行きが、8月なかばくらい。

その治療さえ受ければよくなる、と思っていたのが、治療の後、意識障害が出て来て、治る気配がまったくなくて、アメリカに戻るに戻れない状態で、母りんの看病のため、結局それから1ヶ月半ちょい、結局、10月始め頃まで日本に滞在しっぱなし。

季節も、すっかり夏から秋に変わってしまい、だんなの方も、長期、とはいえ、さすがに出張から戻って来て、テキサスの引っ越したばかりであまり整っていない家にひとりで生活しており・・・「お母さん、具合はどうなの?アメリカにはいつ戻ってくるの?」 みたいな感じに。
(テキサスの田舎で、仕事は夜中まで・・・だったりしたので、そうなると食事についても結構大変だったりして)

わたしの方も、家族4人が元暮らしてた実家からの病院通いで、広すぎる一戸建ての実家に、いっつもたった一人で寝泊まりしてて、母りんが手入れをしなくなって久しい庭は、雑草ぼーぼーで森みたいになりつつあり、病院の面会時間が終わって、夜、まっ暗くなってから実家に戻って来たときに、誰かが庭に潜んでても、「わかんないよー、ちょっとこえーよー」って感じで(隣近所で空き巣の被害が実際にあったりしたので結構リアルに怖かった・・・)実家での一人暮らしもちょっときつくなってきた・・・

で、どうしよう、このまま日本に滞在つづけるか、一旦アメリカに帰るか、みたいなことに。(また、苦手な決断をしないとならない状況・・・泣。)

・・・っていうのは、脳のガンマ治療を受けてしばらくしたら、母親の状態はよくなる、と思っていたので、その程度の準備しかして来ておらず・・・
アメリカの家の方も、「ちょっと行ってすぐ戻って来る」的な半端な状態だったし、日本で滞在する準備の方も「ちょっと滞在してすぐ帰る」的な用意しかして来てなかったので、これ以上、入院が長くなるなら、それなりに腰をすえて、アメリカの家の方も、長く空ける整理をして、日本での長期滞在用の服なんかも含めて持って来るモノを持って来るとか・・・いろいろ用意して来た方がいいんじゃないか・・・と思ったりしたのでした。

で、じゃぁ(日本へ長期滞在するための準備をしに)いつごろ一旦アメリカに戻ろうかな、となったとき・・・このときは、あんまりそういうことを言わないだんなも、さすがに「そろそろ一回帰って来て」みたくなったので、母さんのことが気がかりながらも、そんなこんなで10月はじめころにアメリカに戻った。

あとでよくよく考えたら、それは、わたしの誕生日の週で・・・「あああ・・・これって、母りんのスピリットからの『だんなさんのいるアメリカに帰って、ゆっくり誕生日を祝ってもらいなさい』ってギフトだったのかなぁ」・・・みたく思えたり。(うぅ・・泣ける・・・)


・・・ってことで、そんな感じで一旦アメリカに戻って、無事誕生日も祝ってもらいました。

その後、引っ越して、まだ、ちゃんとまともに過ごしていないテキサスの田舎では、相変わらずやることはないし、戻った後に、妹と話してたときに「そろそろ、ホスピスに移ろうか」と言う話が出て来たりして、そっちのことも気になり、アメリカに戻ったはいいけど、やっぱり、早々に日本に戻らないとな〜・・・、な状況に。

というのは・・・・・その頃入院してた病院はフツーの市民病院で、看護士さんの数もいまいち足りない感じで・・・自分ではもう何もできなくなってしまって意識障害もある母りんのケアをしてもらうには、うちら娘的には、なんか足りないって思ってしまう部分がいっぱいだった、というか。

たとえば、母りんは、割と肌が弱くってかぶれやすいんだけれども、オムツを長いこと放置されてて、かぶれがひどくなってしまったりとか・・・もちろん、お風呂なんて、入れてもらえる時間も余裕も、看護士さんたちの方にはあるわけもなく・・・体ふいてもらうがせいぜいで、それも、何日かに一回で。(なので、うちらが、行った時に、ふいていたけれども)

意識障害はあるけど、母りんは多分、全部のことをわかっているはずだから、なんだか、いろいろ、かわいそう、っていうか、娘的にはいたたまれない、というか。
「お風呂入ってさっぱりしたいだろうなぁ」とか、看護士さんたちが、大急ぎでドタバタと処理して行くの(しょうがないけれども)「いやだろうなぁ」とか。

それと・・・
食事が自力では食べれないので、鼻から栄養チューブを通してたんだけれども、そのチューブが気持ち悪いから、ってことで、母りんが、無意識で手で引っ張って抜いてしまうもんで、それを防ぐために、基本的に、腕と手を・・・ヒモっていうか、ヒモ付き手袋??みたいなもので、ベッドにくくられてたりして・・・(それは、安全のために仕方ない処置とはいえ、やはり、悲しかった・・・なので、うちらが行ってる間は、チューブの見張りができるので、それを取ってあげていた。というか、それを取ってあげる時間を長くするため=ちょっとでも人間らしい時間が長く過ごせるように、と思って病院に毎日通っていたようなもん・・・って言うか。・・・まぁ、同室の人的には毎日来てて迷惑だったかもしれないけど。汗。いや、もうもう・ぎゅうぎゅうな、4人部屋だったもんで ・・・)


・・と、そんな感じで、母りんを人間的に扱ってもらうのは、病院の状況的にも無理っぽいってことが、すでに、それまでの看病でつくづくわかってしまっていたし、意識障害の方も、どうやら戻ることがなさそうで、ガンの方も多分もう治る見込みがない・・・・・ってことが、ほんとにあきらかになって来てしまったので、それだったら、もう、全部やめてしまって、ホスピスに移って、母りんにゆっくりリラックスして最期を過ごしてもらおうか、と言う話になってきたのでした。

わたしが日本にいた間にそういう話が出てたらよかったんだけども、なかなか、そうそう、うまくは行かず・・・
アメリカに戻ってしまってからそういう話が出て来たので、仕事もしていて、結婚生活もちょうどはじまったばかりで、ただでさえ、新しい生活に慣れるのに大変な中、仕事の合間をぬってお見舞いに通っていてしんどいのに、この話が出たことで、妹の方には、更に、ホスピスの病院に母りんの病状を説明しにいったり、ホスピス側の説明を聞きにいかねばならなかったりして、負担がまたまた大きくなってしまい・・・・・
それはそれで、姉としてはまたまた心苦しかったりもした。(ああああ、この「妹の結婚」も、後に書きますが「母りんミラクル」のひとつ、です。)


でもって、やっぱり、ホスピス入院を待ってる人はたくさんいたので、母親の状況がほんとにホスピス・ケアが妥当なのか、とか・・・・・査定?!のようなものもあったりして・・・
審査してもらうために、お医者様との面談があったりもして、面談では、ほんっとに、ホスピス入れてもいいのかどうか=「もうガンが治るための治療はあきらめるんでいいんですよね?」ってのを念押しされるような感じになるので、それは=「治ることは、あきらめた=お母さんが近い将来死ぬ、ってことに同意したんですよね?納得したんですよね?」って、念押しされるみたいな感じにもなるので、精神的にちょっとキツイ・・・
で、その、「キツイこと」を、妹に一人でさせてしまった状況は、いまだに、申し訳なく思ってたりもする・・・。


それでも、このときにもミラクルがあって、ウェイティング・リストがすでにいっぱいで、数ヶ月先まで入院するのは無理、って聞いていたのに、お医者の方から、母親の状況と、うちら姉妹の状況を考えていただき(妹は仕事をしつつ病院通いをしていて、身体的に精神的にも、もうかなりしんどいこと、手伝える家族は妹の他には姉しかいないけれど、その姉は、生活の基盤は今はアメリカにあること、などなど・・・)なんと、すぐにホスピスに移れるようにアレンジしていただいたのでした。
うぅ・・・今書いてても、まだ、うるって来てしまうほど、ほんっとこの先生には、感謝です・・・


と、そんなわけで、病院を移る日が10月の末に決まり、じゃぁ、わたしは、いつから、また日本に行こうか、ということになったのでした・・・
(決めるのが苦手なわたしに、またまた「要決断」の状況・・・ 何回来るんじゃー!!!って言う・・・。でも、こんときのミラクルが、これまた、すごかった!!!!!)


(つづく・・・)
by chiemittii | 2010-11-11 12:12 | いろいろ思ふ・・
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